「癒し」としてのフリースペース

不登校の子どもたちが安心して生活し成長していけるような居場所をつくるという目的のもと、私たちが活動を始めてもうすぐ一年がたとうとしています。4月には県内初の通所型フリースペースとして「フリースペースSORA」を開設し、現在までに10数名の子どもたちを迎え入れてきました。
SORAには校則もなければ時間割もなく、過ごし方は全て子どもたち自身に委ねられています。何かに懸命に取り組んでいる子もいれば、おしゃべりしに来る子もいるし、何もせず過ごしている子もいます。いろんな空模様があるように、SORAでは子どもたちのそうしたいろんな在り方を認め受けいれていきたいと考えています。 
そのような日々の活動のなかで改めて感じていることがあります。それは、フリースペース(=役割期待から解放され自由に過ごすことができる居場所)は、なにも子どもたちだけに限らず、大人たちにとっても必要なのだということ。そこには貴重な「癒し」があると思われるためです。では、いかなる点でフリースペースは「癒し」なのでしょうか。私自身のケースについてお話ししたいと思います。
私はもともと高等学校に勤務していましたが、そこには教師にも生徒にも一定の役割期待があります。勤勉であれ、生産的であれ、という暗黙の期待。学校空間ではそれがあまりにも当たり前すぎて、疑念を口にすることさえできませんでした。その重圧のなかで精神的にボロボロになった私は、学校を辞めようと決意したのですが、それでも自分の感じた違和をどこかで誰かに伝えなくてはと思い、フリースペース開設準備の活動に途中から参加することにしたのでした。
フリースペースでは、先述の通り過ごし方は全くの自由です。何もしないことや怠惰も「ひとつの在り方」として認められ受けいれられています。学校では認めてもらえなかった自分をフリースペースではありのまま受容してくれた、という体験。これは不登校の子どもたちのフリースペース体験と全く同質のものです。疲弊しきっていた私が、新しい価値の創造に向けた運動に動き出すことができたのは、このような「癒し」があったためだと思います。
もうひとつ指摘しておきたいのは、フリースペース開設運動をゼロからスタートさせることができたということ。もしそれが既成のシステムであったなら、自分のような経験もない若い世代の人間に発言し参画する余地が残されていたかは相当に疑問だからです。その種の無力感や幻滅を、若い世代は随所で味わっているように思います。未熟ではあれ自分たちがイニシアチヴをとって試行錯誤を繰り返すなか、少しずつ自分たちの活動に自信を得ていく。これもフリースペースの子どもたちが体験するプロセスと全く同じです。そこには若い世代に固有の「癒し」があるのだと思います。
活動を始めたばかりで毎日が予想外の出来事の連続ですが、「ムリせず楽しく」をモットーに、より良いフリースペースの在り方を今後も模索し続けていきたいと思います。*1

*1:『季刊i-MA』第5号(2002年1月5日)p.28