支援者の条件

■前回、「学び」というスタンスが私たちの活動に何を与えてくれたかについて書いた。「現在、○○について学んでいます!」というスタンスは、その中での試行錯誤を可能にしてくれる。社会は、学びの途上にある者たちに対してはモラトリアム(執行猶予)を認め、過度の責任を負わせることはないからだ。昨今のぷらほに見られる文脈横断型のマネジメントは、そうした「学び」のスタンスを基礎とする。だが、「学び」が与えてくれたものはそれだけではない。
■ぷらほにおいて「学び」というとき、その主語として想定されているのは利用メンバーだけではない。スタッフもまた「学び」の主体である。つまり、ぷらほでの「学び」は、支援する側が支援される側に何らかの学びを提供するというようなものではない。それは、利用メンバーとスタッフの双方が、両者ともに未知であるような何かについて、それらを既知に変えるべく一緒に取り組むことを意味する。そこには、学校における教師と生徒のような上下関係はない。
■当然ながら、そうした「学び」においては、「正しい答え」やそこにいたる「正しい道筋」が予め決まっているわけではないし、スタッフがそれらを事前に把握しているわけでもない。スタッフが間違うことも大いにありうる。これは、「支援する/される」という関係性においては、両者の非対称性を揺るがしかねない非常に危険な事態である。何らかの非対称性がなければ、スタッフが「支援する」側に立ちうる正当性がなくなってしまうからである。
■ではいったい、そこでは何が支援者の条件をなしているか。ぷらほ運営の中で私たちが気をつけているのは、私たちがまだ対象についてよくわかっていない、すなわち、無知であるということ、私たちには未だ見えていないことがたくさんある、すなわち、視野狭窄であるということなどに対して徹底して自覚的である、ということである。無知であればこそ、そこから抜け出そうとするなら、謙虚に他者の声に耳を傾け、そこから何かを学ぶという構えが要請されるからだ。
■とはいえ、自分で自分の無知や狭さを測定できるほど、私たちは賢明な存在ではない。自分たちがどれくらい独りよがりで、偏っていて、残念であるかは、他者からの指摘やツッコミを通してしか明らかにはならない。となれば、周囲の他者たちに対して「開かれ」てあることが決定的に重要だ。そう考えると、私たちの実践は、「開かれ」度の高い人びとが、未だ「開かれ」度の低い人びとを「開かれ」てある関係性へと導くものとして記述できるかもしれない。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』100号(2011年8月)