「学び」がぷらほにくれたもの。

■それまで「居場所」づくりに集中してきた活動に「学びの場」づくりという新しい柱を加えるようになって3年ほどがたつ。意味のある「居場所」とは常に何らかの「学び」の契機を備えているものだし、意味のある「学びの場」というのも参加する人びとに何らかの「居場所」を提供しうるという点で、「居場所=学びの場」なのだが、そうしたことへの気づきも含め、「学び」というスタンスが、私たちにもたらしてくれたものが何だったのか、少しだけ振り返ってみたい。
■「学び」がぷらほにくれたもの。それは、自分たちとは異なる文化に属する活動やそれを担う人びととの協働の可能性のようなものである。この3年ほどで、私たちの活動は大きく変容した。大学の研究室や労働組合、映画館、他分野の市民活動グループなどと協働で実施する企画やイベントの機会が大幅に増え、そのたびごとに私たちは(狭義での)「若者の居場所」とは異なる「顔」で地域のなかに姿を現すことになった。
■あるときは、ドキュメンタリー映画自主上映団体として、またあるときはNPOや地域文学を学ぶ市民ゼミの開催団体として、さらにはコスプレ・イベントの開催団体や地域ミニコミ誌の発行団体として。今月からは、市民派の映画館や生活協同組合と協働で、核と原発をテーマとした市民学習会&ドキュメンタリー映画の上映会を実施する。こうした協働は、すべて「学び」というスタンスを採用することで可能になったものだ。
■どういう意味か。「学び」というスタンスは、私たちを、私たちにとって未知の異文化が存在し、それらを知るために他者の声に耳を傾けねばならないという立ち位置にすえる。「学び」という姿勢をとることで、私たちは、未熟さや未完成さ、不完全さ、アイデンティティの揺らぎといった状態に、安定して身を置くことができるようになる。未熟さや未完成さ、揺らぎは、これから新たな秩序や合意を構築していくというときの、不可欠の前提となるものである。
■複数の他者の間で新たに秩序や合意をつくっていくためには、それまでに各自がまとっていたカテゴリーを緩めあい、新しいカテゴリーのための余地を確保しなくてはならない。もちろん、揺らぎはリスクである。「わからない」などと言おうものなら、世間が「そんなことも?」と牙をむいてくる。だが、「学び」はそうした試行錯誤を社会的に受入可能なものにしてくれる。安心して揺らいでいられること。「学び」はそれを私たちに可能にしてくれるのである。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』099号(2011年7月)