おまえが「ひきこもり」だ。

■ずいぶん理解が及んではきているのだが、現在でもなお「ぷらほ」に集う人びとのことを、「不登校/ひきこもり/ニート」といった弱者カテゴリーに直結させてイメージし、そうした前提でわたしたちのことを評する人たちに遭遇することがある。そこにあるのは、居場所を求めるということを「不登校/ひきこもり/ニート」といったわかりやすい形象でしか思い浮かべることができないという想像力の貧困だ。では、彼(女)らに足りないのはいかなる想像力か。
■第一に、「不登校/ひきこもり/ニート」といった状態像に該当しない自分(たち)のことを、そうしたカテゴリー(やそれらを包括する「社会的孤立」という概念)とは無関係と捉え、「自らがそうした境遇に陥る可能性がある/すでにそうした境遇にある」という可能性に思い至ることができないという点。「名ばかり管理職名ばかり正社員」がはびこる現況下にあって、自分(たち)は違うとはっきり言い切れる者など、いったいどこにいるだろう。
■第二に、仮に自分(たち)が「会社−家族」という帰属先をもっている場合でも、そこに「社会的孤立」につながる問題が存在しないわけではない。正社員として働き、家族を養うという、社会的に「一人前=自立している」とされるライフスタイルは、しばしば「会社−家族」による過剰包摂へとつながっている。家と職場の往復に陥りがちなその生活は、「会社−家族」が彼(女)らに求める画一的な役割期待やカテゴリーゆえ、息苦しいものになりうる。
■つまり、彼(女)らの想像力の貧困とは、どちらも、カテゴリーをめぐる想像力の乏しさだということである。とりわけ目立つのは、ひとりの人間をたったひとつのカテゴリーで表象できるという甚だしい勘違いである。日本的雇用(終身雇用、年功賃金、新卒一括就職)が機能し、所属する組織名を自らのアイデンティティと錯覚できた団塊世代ならともかく、現在においてはすでにそうした現実は存在しない。今や、ひとりの人間は複数のカテゴリーの束に分解可能である。
■彼(女)らが無邪気に使う「ひきこもり」という語彙。カテゴリカル・ターンを経たわたしたちから見れば、家と職場以外につながりをもてず、自己カテゴリーが単色で、窮屈な役割期待のなかで窒息しかけている彼(女)らのほうこそ「ひきこもり」の形容に相応しいように感じる。この場合、「ひきこもり」とは、単一のカテゴリーへの「ひきこもり」を意味する。「ひきこもり」はあなただ。まずはあなたが、外界――多様性と複数性の世界――に出よう。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』098号(2011年6月)