鳥羽耕史 『1950年代』

1950年代---「記録」の時代 (河出ブックス)

1950年代---「記録」の時代 (河出ブックス)

一九五〇年代。それは、敗戦後の混乱からは脱したものの、未だ高度経済成長の本格化には至らない、戦争/占領の四〇年代と学生反乱の六〇年代にはさまれた隙間の時代。本書は、これまであまり脚光を浴びることのなかった空白と忘却の五〇年代の文化を真正面から取り上げ、この時代を現代的意義に満ちた「新しい過去」として記述しようという試みである。著者は、日本近現代文学が専門の研究者。
文化史的に見れば、五〇年代とは四〇年代の統制と抑圧からの解放の時代である。この時期、社会的な現実をめぐる人びとの「記録」が活発化する。そうした「記録」の爆発は、一九三〇年代以降続く報告文学や記録映画に加え、新たに多様なジャンルを産み出した。第一に生活実感や社会分析を重視した生活綴方・生活記録(ブームのきっかけとなったのが無着成恭編『山びこ学校』の出版だ)、第二に「闘争」の現場を取材したルポルタージュ、第三に一九五三年以降のテレビ・ドキュメンタリー、第四にルポルタージュ絵画やリアリズム写真、そして最後に地域史を伝える紙芝居や幻灯である。
「記録」と言うと、目前で生起した現実をそのまま写し取ることだと思われるかもしれない。だが現実は、それを眺める角度により異なる像を結ぶ。「記録」も同様。どの視点からそれを捉えるかによって何が「事実」として構築されるかも変わる。かくしてこの時代、何を「記録」するかをめぐり、人びとの間で熾烈なヘゲモニー闘争が繰り広げられた。例えば、ダム建設の「記録」で言えば、経済成長と技術進歩の証と捉える肯定的立場と、電源の軍事利用や開発による村落共同体の解体を読み取る批判的立場とがあった。
やがて台頭するテレビがそうした多数性の空間をのっぺりと塗り潰していくのだが、だとすれば、テレビ一人勝ちの時代が終焉を迎えようとしている現在は、再び「記録」をめぐる闘争の時代と言えるかもしれない。私たちはいったい何を、どのように「記録」していけばよいのか。同じ問いに真摯に向き合った五〇年代の経験に学べることは多かろう。本書はその貴重な一歩である。*1

*1:山形新聞』2011年2月6日 掲載