「伝えすぎる」ということの弊害

■前回、「学んだり考えたりすること」からの疎外について書いた。わたしたちは、わたしたちを思考停止へと押しやる力にさらされながら生きている。第一に、テレビなどマスメディアが垂れ流す「わかりやすい世界/社会の像」が、わたしたちの視界を去勢する。ある人が、その「わかりやすさ」にふと疑問を覚え、「それって本当?」とつぶやいたとしよう。すると今度は、「そんなのオレらには関係ないよ」と、抑圧の力が周囲から働く。かくして疎外は達成される。
■そうした疎外を回避するためには、誰かの「それって本当?」をきちんと受け止め、ともに考えることから始めるしかない、と書いた。現に「ぷらほ」では、そうした問題意識のもと、誰かが発した「それって何?」を抑圧しないことを大事にしてきた。それは、同じように感じているがたまたまそれを言語化せずにいる人たちの隠れたニーズを代弁=代表する貴重な声である。そうした声を丁寧に拾うことが、結局はその背後にいるたくさんの人びとのニーズをも充足する。
■ところが、である。ある日のこと、いつものように無邪気に、ある人が居場所で「●●って何?」との疑問を発した。やはり、いつものように無邪気に、「かいつまんで言うとそれは…」と応える自分。論理的に理解してもらうために、いつもどおり、そもそもその●●はどのような構成要素から成り立っていて、それがどのように組み合わされてそうなっているのかを説明する。ひと通り説明し終えたところで、その人から「かいつまんだ割に長いな」と一言。愕然とした。
■わたしの説明があまりに下手くそで、余計な枝葉が多すぎて、全然「かいつまんで」いなかった、という可能性はここでは省く。ショックだったのは、その一言のなかに、わたしが当然の前提として想定していた「学んだり考えたりすることにはコストがかかる」ということが微塵も含まれていなかったことだ。「新しい知識や視点というものは、自分なりに頭を悩ませたり理解できなさに煩悶したり、という中でようやく得られるものだ」という前提が存在しなかったことだ。
■確かに、無知はあなたの責任ではない、と思う。理解できるまで教えてくれなかった大人や教師に責任がある、との考えは今も同じだ。だが、先の一言が、わたしに新たな認識をもたらしてくれた。ある人が何かを「理解する」ということが達成されるためには、伝える側の努力だけではダメで、受け取る側にもまた、相応のコスト負担が要る。何でもかんでも説明しすぎてしまい、そのコスト支払いの機会を奪ってしまうこともまた、疎外の一形態だったのである。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』062号(2008年6月)