「就労支援=ニート支援」から遠く離れて。

■先日、山形県からの委託を受けた「若年無業者のための社会参加体験プログラム開発」事業の一環として、山形県労働相談センター・事務局長の佐藤完治さんを講師に招いてのワークショップ「労働相談を体験してみよう:コミュニティユニオン一日体験企画」を開催した。労働者の権利と労働組合(ユニオン)の存在意義について学ぶというのがテーマである。巷にあふれる「就労支援=ニート支援」への違和感――より切実に必要なのは「労働支援」である――から構想した。
■ワークではまず、地域労働組合の労働相談窓口に寄せられる相談事例から幾つかのケースをあげてもらい、それについて参加者それぞれが感じたことや考えたこと――自分が当事者ならどうか、相談を受けた側ならどうか、問題をどう解決すればよいと思うか、その際に根拠とした考えかたとは何か等々――を、KJ法を用いて言語化。可視化された様々な意見や見解を、講師のひく補助線も参考にしつつ、整理したり掘り下げたりしながら、参加者が共同で解決策を考えた。
■あげてもらった事例は以下の二つ。1つ目は、仕事がきつすぎて体調を崩し無断欠勤してしまったところ、「やる気を見せろ、さもなくば辞めろ」とノルマを課せられ、頑張ったもののそれが達成できなかった結果、退職届を書かされたというもの。2つ目は派遣労働の事例で、会社側から「900円の時給を750円に下げる」と、突然の賃下げ提案をされたというもの。どちらのケースも、実際には会社側の要求を退けることができたという。何がその勝因であろうか。
■私たちが学んだのはこういうことだ。本来、雇う側(使用者)と雇われる側(労働者)とは、対等の契約関係にある。しかしながら、現実の力関係としては、雇う側が圧倒的に強く、雇われる側は圧倒的に弱い。この上下関係を放置すれば、そこには(契約ならざる)身分が発生してしまう。ゆえに、圧倒的に無力である雇われる側が雇う側と対等な契約を結べるように、雇われる側には、制度的な下駄が履かされている。この下駄が、労働者の権利であり、労働組合である。
■ある参加者が次の感想を口にした。そうは言っても「労働者の権利」や「労働組合」なんて、この講座を受けるまでは自分には無関係だと思っていた。どうして学校や会社は、社会を生きるのに不可欠なこうした知識をきちんと教えてくれなかったのか、と。同感だ。知らないからこそ私たちは、自分に責任のない責め苦を負ったり、泣き寝入りの強要に従ったりせざるを得なくなる。知を提供すること、力を与えること。「労働支援」が照準するのは、そこだ。*1

*1:『ぷらっとほーむ通信』059号(2008年3月)