すぐ次の不満

■週末の居場所連続講座講師の方との打ち合わせのため、会津若松市へ。助手の「ごくまれ」の中の人と米沢で合流し、目的地のNPO法人寺子屋方丈舎」へ向かう。道に迷ってやや予定より遅れたものの、何とか無事に会津若松駅前に到着。駐車場から顔を上げると、駅前すぐの雑居ビルのガラス窓に「寺子屋方丈舎」という青い文字が。ビルの2階が、スリースクールに。火曜日は、そこの利用者さんたちが自主運営している宅配花屋の営業日とのことで、スタッフと利用者の子どもたち数人で配達に出かける。その間、わたしと助手の人は、理事のEさんと打ち合わせ。終了後、配達組が帰還するまでの間、室内のあれこれを見て回ったり、居残り組の人たちとしゃべったりして過ごす。しばらくして配達組が戻り、そのまま彼(女)らはミーティングに。わたしと助手の人は、遠巻きにそれを見学させていただいた。詳細は書かないが、とにかくすごく興味深かった。いろんな意味で「動き」のある居場所だと思った。帰り道、それぞれ感じたことを言葉にして、共有しながらの車中。やはり「外」にでると、いろんな刺激があってよい。相方の中の人が同行できなかったことが(やむを得なかったこととはいえ)非常に残念。またの機会をさぐろう。
■たったの数時間とはいえ、フリースクールという空間で過ごしたことで、触発された感覚や感情があることに、ふと気づく。どこかで感じた感覚。疲弊と消耗の、にぶい記憶。どこだろう、としばらくあれこれ考えて、それは「フリースペースSORA」のスタッフ時代のそれだと思い至った。「不登校経験あり」という大枠の共通項以外にはほとんど共通点もなく集まってくる子どもたち相手の、事前制御がほとんど皆無の状態での、関わりの日々。運動そのものがどこへ向かうのか、先も見えず、貯金的余裕と精神的余裕とを少しずつすり減らしながら、じわじわとどこかへ滑り落ちていくような、そんな不安定な日々。あの頃の感覚や感情だ。そう考えると、現在運営に携わっている居場所での日常がまるでそういった感覚と無縁なのが、改めて不思議に思えるわけで。どうしてこんなにも違うのだろう。その差異はいったい何に起因するものなのだろう。やはり事前制御という点で、不可視の選別基準を無意識の内に構築し、適用しているということなのだろうか。ともあれこれは、自分らとしては非常に興味深い論点だろうと思うので、継続して考えていきたいと思う。
■とにかくまあそんな感じで疲れ果て、「ごくまれ」の人を送り届けたあと、耐え切れずにそのままそこの駐車場で泥のように眠る。しばらくして目を覚まし、山形へ帰還。帰路、そういえば、気になる映画があったんだっけ、と突如思い出し、フォーラムのレイトショーに行くことに。帰宅して夜中の12時。眠気の波状攻撃と戦いつつ、明日締切の原稿を書く。「当事者」をめぐる一考察。「当事者主権」と言われたときに感じた違和感のようなものを、現時点でできる範囲で言語化しようとしたもの。でも、うまくまとめきれない。