あの頃の僕にはもう戻れないよ

さよならセシル

さよならセシル

■30‐31日。第7回目の「居場所合同研修会」@国立磐梯青年の家。シューレ大学の朝倉景樹さんをお招きして。今回のテーマは「協働」。「スタッフの過剰消耗」問題に始まり、それを乗り越えるための「言語化を通じた共通前提構築」を経て、その過程で生成しつつある「共通前提」を活用した「協働事業の構想」へ。時機だと思ったので、かねてよりの妄想を言語化してみた。反応はまあ悪くない。「やりたいことはたくさんあるのに組める相手がいないなあ」なんて煮詰まりかけていたわけだが、何のことはない。その人たちはごくごく近くに、ずっと昔からいてくれてました。気づけなかった自らの視野狭窄っぷりに激しく反省。これからがんがります。深夜にまで及んだ交流会では、シューレの朝倉さんにあれこれお話を伺う。数々の不躾な質問にも穏やかにかつ丁寧にお答え下さり、本当に感謝いたします。今回、研修で仕入れた数々のネタやアイディアを、どのように今後の活動や研究につなげていくか。先延ばしにせずに思考しなくては。
■4月1日。家庭教師3件。久しぶりの賃労働は、何だかひどく新鮮な感じが。読書中の森達也に触発されてか、仕事の合間につらつら考える。憎悪むき出し、怨念丸出しの不寛容がいかに醜いか、ということについて。「みんな」の思想の気持ち悪さとか、「善/悪」の区分けと「悪」の排除のおぞましさとか、自らを「正義」や「善」と信じて疑いもしない無自覚さとか、不安に怯えて抑圧委譲のお祭りに興じる卑劣さだとか、些細な批判にも過剰に傷つき憎悪をたぎらせる脆弱さだとか、全てを「満たされぬ心」に帰着させる心理学主義の単純さだとか、メディアの垂れ流しを鵜呑みにする能天気さだとか、そういう諸々に怖気がさす。目に映る随所で垂れ流されるそうした諸々に侵食され、似たような思考回路で思考しがちになっている自分にふと気がついて、ハッと我に返る。吐き気。やはりわたしはどうしても、この手の不寛容に対してだけは、寛容になれそうにない。