『王道楽土の戦争[戦前・戦中篇]』

 「五族協和の王道楽土」を掲げた一九三〇年代の実験国家・満州国。帝国日本の事実上の植民地であり、その後の日本がファシズムへとなだれ込んでいく「触媒」として機能したもの、それが満州であった。この「王道楽土」=満州国という窓から、戦前・戦中の日本を逆照射してみると、そこにはいかなる「日本史」像が姿をあらわすのか。これが本書の核心である。
 自身も東北は山形の生まれである著者は、満州国を「東北」=「奥羽越列藩同盟系」という視点から眺める。満蒙開拓団の農民らはもちろん、関東軍の実力者の中には、石原莞爾(山形)や板垣征四郎(岩手)、安江仙弘(新潟)など、「奥羽越」の出身者が数多く含まれる。近代日本にあって「奥羽越」とは、飢餓や貧困の代名詞。その差別的な境遇は、明治政府による「賊軍」扱いやコメ増産のための「国内植民地」扱いに起源をもつ。低開発や貧困を強いられた「奥羽越」の怨念。近代天皇制のシステム――天皇の戦争に協力すれば身分差別を撤廃する――が、そうした被差別民をこそ最も苛烈に動員し収奪するしくみであったことを考え合わせるなら、彼らの怨念こそが、満州国プロジェクトを駆動させる重要な熱源となったのではないか。これが著者の仮説だ。「東北」から見た近代日本、とでも言おうか。
 もちろん「東北」からの視点だけが著者の描き出す「日本史」ではない。「日本史」を一国史の枠内に押し込めようとする「島国史観」を退けつつ、著者は常にそれを世界史的な視点から相対化して描いてみせる。例えば「蒙古襲来」。騎馬民族の「無血征服」的性格を考えるなら、「元寇」は「中世海洋国家」の端緒でありえたかもしれない。確かに歴史に「もし」はない。だが、のっぺりと平板な「日本人」や「日本史」が歴史を遡って構築され、かつて存在したはずの多様な可能性が忘却されつつある現在、そのような想像力もまた必要であろう。本書は、そうした想像力の訓練のための格好の素材となるだろう。