『空中庭園』

映画『空中庭園』パンフレット

映画『空中庭園』パンフレット

■フォーラムにて、豊田利晃監督『空中庭園』を。前の日に読んだ角田光代原作の『空中庭園』が、映画版でどのように「解釈」され「再構築」されているのか、興味をもって観る。基本的なモチーフは変わらずに登場するものの、主人公・絵里子(小泉今日子)が構築する意味=世界の危機と解体と再生が、物語の軸として配置されている。この基本設定によって、原作ではもっと遠景に引いていた「京橋家」の二項対立――秘密なし/秘密あり、ダンチ/ラブホテル、光/闇、など――がくっきりと前景に。京橋家の面々は、これらの二項を往復しつつ、絵里子の世界に少しずつ亀裂を入れていく。不安定なカメラワーク。何かを暗示し続ける不協和音。やがてそれが臨界点を迎え、絵里子の意味=世界は崩壊し、生々しい現実が到来する。このカタストロフが「降り注ぐ血の雨」として映像化されており、とにかく凄まじい。とか思ったら、この「血まみれ」の再生=生まれ変わりの直後、新たに家族たちに迎え入れられるラストシーン。どこかで見た光景。よくよく考えてみるに、これって『エヴァンゲリオン』のTV版最終回のラストシーンそのままじゃないかと小一時間。まあいいんだけどね。物語として一貫してはいるわけだから。
■なんつーか、キャストがよかったです。マナ(鈴木杏)とか、ミーナ(ソニン)とか、原作読んだ感じでは、正直言って、イメージがまるで異なっていたわけですが、そのギャップが逆に面白く。何より、飯塚(永作博美)が、とてもとても穏やかに鬼気迫っていて、最高でありました。原作も映画も共に、「郊外・中流核家族」のリアルとは何か、というのがテーマなのでありますが、「光」に象徴されるものとしての「郊外・中流核家族」の陰画が、「ラブホテル」の「窓のない部屋」に形象化されているところが非常におもしろい。「ダンチ」も「ラブホテル」も、薄っぺらで平板で取り替え可能な「郊外」的風景の構成要素としては似たり寄ったりなモチーフである。ということはつまり、結局のところ、わたしたちはどう転んだところでこの「郊外」的な風景の外部へなど出ることはできない、できるのはせいぜい「ラブホテル」的なもので「ダンチ」的なものに刺激を与えることくらい。そんな「どこへもいけない」という身もふたもない現実をそのまま包み隠さず、その姿形のままで潔く差し出されている感じがあって、それがものすごく爽快。お蔵入りしなくてよかったね、とか言いたい。本当にありがとうございました。