第3回 覚書

■とりあえずミニコミでも。ということでスタートしてはみたものの、メンバーそれぞれのなかでの当該企画の位置づけがよくわからず、したがってどこまで比重をかけてよいのかがまるで見えず。その調整が行われる。確認されたのは、次の点。
第一に、ミニコミは手段にすぎないということ。目的は、「山形」という地方において実現可能なオルタナティヴをめぐる価値=言説を収集・編集・発信することで、それをネタにした選択縁のゆるやかなネットワークを現実的に構築していくこと。ミニコミはあくまでその手段に過ぎず、照準する対象が誰であるかによって、ミニコミ以外にもさまざまな媒体を考えるということ。
第二に、「オルタナティヴをめぐる価値=言説の収集・編集・発信」と書いたが、当該のオルタナティヴとやらが何であるかについては、徒手空拳でフィールド入りしたところで、切り取れる対象なんてたかが知れている。世界を切り取るためには、方法や視点が必要。それが現時点での自分たちにあるのか、という問題。ないのだとすれば、まずはそこを構築することから始めなければいけないのではないかということ。
第三に、「方法や視点の構築こそが急務」と考えるのであれば、すでにそのための場として「日曜ゼミ」があるわけで、それとどう差異化されるのかということ。「日曜ゼミ」がメンバー各自の問題意識の掘り下げとそれを通じた言語化能力の獲得を目的/効用とする(つまり掘り下げに重点を置いた「対自」的なプロジェクト)のに対し、「山形問題」のほうは、獲得された視点や価値を外部に向けて発信しそれを通じて環境への働きかけを行うことを目的/効用とする(つまり伝達に重点を置いた「対多」的なプロジェクト)。
第四に、したがって「外部への伝達」を前提とした「価値の掘り下げ」が、「山形問題」プロジェクトのとりあえずの課題であるということに。「外部への伝達」に適するテーマを設定し、それをめぐって編集部で学習会を定期的に開催。しばらくは、インプット作業にいそしむということ。「伝達」が前提ゆえ、なるべく多様な人びとが当事者たりうるような広域的なテーマが望ましい。編集部の関心領域も勘案して、当面の掘り下げテーマを「家族」と設定。
第五に、「家族」についてのオルタナティヴな切り口について掘り下げるためには、既にある「家族」をめぐる言説の布置について知悉しておかなくてはならない。天国に行きたいならば、地獄への道筋を知ること。家族をめぐる切り口の多様性を学習し、それらのマッピングを共有できるような学習会が望ましい。ということで、毎回の学習会において、それぞれが選んだテクスト(文献でも映画でも。誰でも読解可能なものなら可)について、その批評をレジュメにまとめて報告。その論評を続けていけば、編集部に共通の「家族」関連テクストのデータベースが生成。隔週で実施。その間の情報共有や連絡については、そのためのブログを準備。学習会の開始は、10月2日(日)。置賜にて。


■さてそれでは感想。集まりで得られるものに比して1回/週のペースはちょっと非効率すぎはしまいか。的な疑念が浮上しつつあった頃合だけに、それを編集部での議論の俎上にのせることができて、それがまずはよかったなあと。無理しちゃいかんよな。とはいいながら、明らかに無理が足らんよな、とも。やれる範囲で。とか言ってるうちに1年が過ぎ2年が過ぎ、というのがここ数年の過ごしかたなわけだから、それを繰り返すのは勘弁なわけである。要は、「無理なく無理がやれるしくみ」が必要なわけで、それはどういうことかというと、思考の範囲や視界を限定してくれる枠組をまずは設定する必要があるのだということ。その枠組さえあれば、そしてそれがある程度余裕ある設計なのであれば、あとはその範囲内で思うさま無茶とか無理とかやればよい。事前制御。このあたりのことも、何とか言語化できればいいなあ。今書いてて思った。
とにもかくにも、自分には教養が圧倒的に足りない。『これが わたしの、いきるみち。』の後続企画が頓挫しているのも、「山形問題」に今ひとつ踏み切れないのも、とにかくそこに欠陥を感じるからだ。今の自分がフィールドに出たところで、げんなりするくらい凡庸でベタな何かしか、きっと掬い上げられない。凡庸なオルタナティヴ、紋切り型の代替案なんて、既にシステムに回収済み。偽解決の片棒担ぎはもう勘弁。だとしたら、現在の視界とは異なる風景が見えるようになるまで、ひたすら足元の地面を掘り下げていくしかない。なんて荒唐無稽な。だが実は確信がある。新たな視座、新たな言語。それを獲得する。
加えてもう一つ。他の編集部メンバーに比べて、なぜに自分はかくも「伝達」への動機が薄いのか。彼(女)らの話を聞いていて「ふんふんなるほど」と思ったのは、「伝達」すなわちアウトプット機会が、少なくとも現在の自分の周囲には飽きるくらいにありふれている――予備校講義とか、ブログとか、ぷらほ通信とか――わけで、だからこそわざわざ別口でもうひとつそれを増やそうという動機が生まれないのだらう。というか、講義やブログや通信といったアウトプットに過度に偏った日常において、自らの凡庸さや希薄さを日々思い知らされてしまっている部分もあり、そのバランスもあってのインプット欲求なのだろう。あとは、「伝達」の方法的洗練は確かに必要な作業ではあるのだろうけど、その技術論にあまりに拘泥しちゃうと某芸●大のデザイン系の学生さんたちみたいに「キャッチーだけど中身スカスカ」になるんじゃないか。とかの独断かつ偏見も自分にはあって、ちょっと眉につばをつけてみたいのかもしれない。つーかそれは極論か。ともあれ、「家族」関連の文献購読に励みたいと思います。「伝達」の窓口がひとつ増えたことだし。