今春が来て君はきれいになった

予備校夏期講習。挙動不審な女子高生がいるなと思ったら、去年担当した卒業生のHとKが遊びに来ていたのだった。半年ぶりに会う彼女らはすっかり大人びて見えた。授業中で他の職員がみんな出払っていたので、「ごめんねみんないま授業中なんだ」とか言ったら「いやいやあんたの顔を見に来たんだよ」と返され、しばらくあれこれからまれる。社交辞令や美辞麗句の類とはわかっていても、そういうことを言われると何だか非常に「こちょびたい」*1わけで。どういう顔をしていいのかわからなくなる。
彼女らとは、在学中に特に深い関わりがあったわけではない。わたしは予備校では半ば自覚的に、半ば無意識に「素」の自分を圧殺している。同僚にも生徒にも過剰に関心をもたれることなく、ただ「空気」のようにそこにあること。必要最低限の業務を、必要最低限の努力で過不足なく淡々とやること。そんな自分だからこそ、自分などのところを訪れる人間がいるということに、率直に驚いてしまう。そういえば高校を辞めるときも、在学中にほとんど接触のなかった生徒くんたちが来ていた。彼ら彼女らにとって、自分のような存在が、いったいどのようなものとして認識され位置づけられているのか、どのように機能しているのか、それがむしろ関心をひく。

ホームに残り、過ぎ去り行く列車を、人びとの後ろ姿を見送る。今回もまたそんな役回りかよ、なんて思っていたのだが、よくよく考えてみたら列車に乗ろうとしているのはわたし自身なのでした。いま飛び乗ろうとしている列車がどこ行きのものなのか、鈍行なのか急行なのか、正直言ってあまりよくわかっていないのだけど、さらにいうと、また同じこの駅に戻ってこれるのかもわからないのだけど、それでもわたしは行こうと思います。見送ってばかりの自分が見送られるのはやはりどこか「こちょびたい」けれど、たまにはそういうのも悪くないかな。なんてな。

鈴木祥子でも聴こう。

*1:東根弁。くすぐったい、の意。