雨宮処凛×佐高信 『貧困と愛国』

貧困と愛国

貧困と愛国

巷でよく耳にする「物質的には豊かだが精神的には貧しい日本」なる定型句。だが「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」など「若年の貧困」の発見により、私たちの社会は実は「物心ともに貧しい」という身も蓋もない事実が露見しつつある。そんな中、若い世代の言論にも「戦争待望論」が見え隠れするようになってきた。
階層化が進む日本社会のなかに自分たち「貧困な若年」の居場所は存在しない。どんなに頑張ったところで、今後も同じだろう。だが、戦争により社会が流動化すれば、自分たちにも機会や権限が巡ってくるかもしれない。ならば戦争を、というものだ。
本書は、この「若年の貧困」と「戦争/愛国」の危険な繋がりをテーマにした、団塊世代の評論家・佐高信(酒田出身)と、団塊ジュニアの著述家・雨宮処凛との対論である。「戦争/愛国」に反対という点で似たような立ち位置(左派)に属する二人だが、両者の間には深い断絶が存在する。
例えば、戦後民主主義(学校民主主義・組合民主主義)を賞賛し「子どもたちを戦場に送るな」と語る佐高に対し、「いじめや差別や暴力が放置され蔓延する学校や職場こそ自分らにとっては戦場そのもの」と語る雨宮。彼女は、そうした空間の生きづらさから逃れる過程で「戦後民主主義批判」に出会い、右翼活動に参加。そこから反貧困・反愛国へと逆転向したという。
佐高の求めに応じて語られた雨宮の異色の経歴は、戦後民主主義の死角で誕生し、その不作為ゆえに繁茂した新たな課題群を照らし出すものだ。その意味で、「貧困」と「戦争/愛国」は戦後民主主義の鬼子なのではない。嫡子なのである。
これは戦後民主主義に対する新しい世代からの痛烈な批判である。この声を拾えるかどうかが、今後の左派の課題であり、同時に、若年の社会統合という国家の課題である。必要なのは世代間の対話だ。異なる世代の二人が立場を超え対等に語り合う本書は、そのモデルケースとしても貴重である。*1

*1:山形新聞』2008年4月27日 掲載