『公益の種を蒔いた人びと』

公益の種を蒔いた人びと―「公益の故郷・庄内」の偉人たち

公益の種を蒔いた人びと―「公益の故郷・庄内」の偉人たち

■読了文献。92冊目。小松隆二『公益の種を蒔いた人びと:「公益の故郷・庄内」の偉人たち』。庄内地域は「公益の故郷」であるという。公益活動に関わり公益の精神を宿した人びとを、主に明治期、庄内は数多く排出してきた。当時は国家による行政サービスが未整備ゆえ、今日なら公的機関が実施する社会政策のほとんどが、公共セクターならざる民間セクターによって供給されていた。地方名望家=地域リーダーの自助的な供出が常態で、背景にはそうした行動を支えるノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の責務)の精神が存在した。本書は、そうした「公益」の体現者であった庄内の地域リーダーたちを取り上げた「公益偉人伝」である。開学五年目の東北公益文科大学酒田市)の「公益学」研究の中間成果でもあるという本書の議論には、しかしながら、疑問に感じられる部分も少なくない。第一に、近代国家未整備の時代に公共の福祉を実質的に担った地方名望家は、おそらくは日本全国どこの地域にも存在する。庄内のそれが他の地域のそれと比べてより「公益的」とする根拠が不明だ。本書が単なる地域学の産物だというのであればそれでも構うまい。しかしながら「公益学」を名乗るのであれば、「公益」概念をめぐるより厳密な定義が必要であろう。第二に、本書によれば「公益」の担い手として取り上げられているのは専ら地方名望家(持てる者)のみ。これは、公益へのアクセスから民衆(持たざる者)を排除した歴史観といえるだろう。ここに見られるパターナリズム(家父長主義)に問題はないか。さらには、持てる者のみが公益を担ってきたような地域を「公益的」などと呼べるのか。公益という観点からは、むしろ庄内は後進地域とさえ言えるのではないか。そんな疑問すら浮かぶ。とはいえ、民間公益活動の資金源を有力企業(持てる者)のCSRに頼らざるを得ないような現状からすれば、持てる者のノーブレス・オブリージュを喚起する物語が確かに必要ではあるわけで、それを「地域の偉人」という物語を媒介項として調達しようという本書の戦略は、理解できないものではない。「庄内の地域リーダーは昔からすごいんだね」とおだてられた持てる者たちが気をよくして財布を開くという構造。そう考えると本書は、寄付文化醸成のための「あえてする」物語という側面をももっているわけである。つまりここには「公益学」なるものに固有の、ある困難がある。学問的真実の追究か、特定地域のニーズか。価値中立志向か、特定価値志向か。公共性か、地域性か。こうした二者択一に通底するのは、学問(大学)と地域との関係性のありかたをめぐる難問である。その意味で、本書が記述していること/記述していないことは、地域に開かれた学問(大学)なるものが抱える葛藤や難問について考えるには、格好の素材だ。ぜひ手にとっていただきたい。