もう此所には何もないということ

■予備校高等予備科2コマ。居場所運営委員会(という名の「日常」復帰のためのリハビリテーション)。全然ダメだと思うのは、「ことば」がまるで生まれてこないこと。何かを「語りたい」という欲望や動機が、悲しいかな、今の自分にはどこにも見当たらない。自分を動機づける「物語」たちを、鼓舞したり方向づけたり位置づけしたりしてくれるような「枠組」の不在。不在の自覚は、2年前に遡る。今年こそは「この場所」からいいかげん抜け出したいものだと思う。「枠組」の不在ゆえの「物語」の空転/ゆえの「枠組」構築の頓挫/ゆえの「物語」の空転/ゆえの…という、動機磨耗スパイラル。この悪循環に、さてどう介入したものか。「枠組」が強制降臨する(であろう)今春まで、あせらず待つがよろし、なのか。
■読んだ本。

「ダメな教師」の見分け方 ちくま新書 (547)

「ダメな教師」の見分け方 ちくま新書 (547)

「教育への市場原理導入」ならぬ、「教師(の仕事)への市場原理導入」の主張。「市場原理」とは、学校教育サービスの「利用者」たる生徒(や保護者)の中の人たちが当該サービスを評価するまなざしのこと。学校教育サービスへの「消費者主権」視点の導入。その実現のための、具体的な政策提言。「市場原理」への過大ともいえる評価はやや気になる――「市場」すなわち学校利用者の民度が成熟していなければ、「市場原理」導入は状況悪化をも容易に帰結しうる(そしてそれは大いなる蓋然性をもって各所で発生することが予想されうる)――ものの、それ以外には正統性の調達は困難であろうから、まあ仕方あるまい。「利用者の民度」問題については、別途の対策――例えば、「快/不快」原則とは異なるような評価・判断視点の存在とその利用法を学習できるような場や機会の提供――が必要。自分のような人間には、現状よりもはるかに「やりやすい」しくみに見える。