過去からの呼び声。

知人の技術者に、壊れていたPCを見てもらう。閉じ込められていた過去5年分のデータを救い出してもらった。激しく感謝。ついでに、といろいろお掃除をしていたら、数年前の変動期のやりとりの記録(未知の情報)を発見。明らかに自分に非がある〈人権侵害〉について、自分を除く複数の人々の間でのやりとり。断罪とか、罵倒とか、評価とか、人格分析とか、そんなあれこれの断片。「政治」の痕跡。うーん、なんだそうだったのか。当時受けた意味不明な攻撃とか誹謗とか中傷とかの謎(の一部)が氷解。なるほど、過去に〈人権侵害〉に関与した人間になら、いくらでもどんな手段を使って〈人権侵害〉してかまわないよ、という思考回路だったか。
過去に自分が自身の理解不足から関与してしまった特定の〈人権侵害〉――他者の個人情報を特定可能なかたちでウェブにさらしてしまったこと――に関しては、深く深く反省してきたし、今もなおそうである。そのことに関しては被害当事者の方からも断罪を受け、自分の行為を謝罪した。もちろんそれでことが済んだなんて思っていないし、和解なんて永遠にないだろうとも思う。さらなる断罪があれば、幾ら時間がたとうとも、きちんと受けるつもりだ。さらに、相手の方がそれを望むのであれば、何らかの「罪滅ぼし」だってするつもりできた。
だが、そうした当事者間のやりとりとはまったく別次元で、わたし個人の失敗をネタに、ギャラリーの一部の連中が「悪いやつ(ら)には何をやっても可」的に調子付いて、そのあげく、わたし個人のみならずわたしとそのときたまたまいっしょだった人たちまでをも攻撃・誹謗・中傷したのだとすれば、そうした「便乗の作法」に対して、わたしは率直に怒りを感じる。憎悪や怨念の疼きをおぼえる。自らの悪意の存在にはまったく無自覚に、「あくまで自分は善意のもとで悪を掣肘するのだ」との自己認識のもとで、〈加害者〉という「弱者」に対して、無制限に行使される、無制御な暴力。「自らの〈加害〉を自己反省する者」という立ち位置ほど、無制御な匿名の暴力にさらされやすい場所はない。
この匿名の暴力――とはいっても残念ながら特定できてしまったんだが――に、だからといってわたし個人は何かをなそうとは思わない(連中に関心などない)。それでは「便乗の作法」の再生産だ。怨念や悪意の拡大再生産だ。少なくとも、今回のこの件で、わたしは自分自身の底のほうで脈打つ怨念や悪意の存在を自覚し、そしてそれを言語化した。とにかくそれだけだ。不完全ながらもこの自覚とその記録があれば、怨念や悪意の表出を、多少なりとも行為レヴェルでは抑制していける(あるいは初心に立ち返る契機にはなりうる)だろう。それさえあれば、とりあえずはよい。
半ば「怒り」にまかせて書いてしまった。「怒り」というのは自分自身のダメダメさに向けられたもの、今でさえダメなのにその今よりもずっとずっと未熟であった過去の自分に対するものだ。「悔しさ」というほうが正しいかもしれない。下衆な連中に、容易に付け入る隙を与えてしまった自分自身の脇の甘さ。そしてそんな隙だらけの人間が「政治」がどうのなんて、偉そうに語ってしまっている(しかも半ば無自覚に)ということ。うわー、恥ずかしい。近年まれに見る、といった感じだ。よって、記念にここに記すことにする。