構築主義の現場的活用法

昨日の記事【参照】に関して、cafe_noir さんにTBをいただいた。

簡単にかつ乱暴に要約すると、「現実的切迫性」を前にしたときに「理論上のオルタナティヴ」なんぞに意味があるんかいな、という趣旨のご批判。
三つの点で反論。第一に、わたしのふったネタは単なる「理論上のオルタナティヴ」ではないし、第二に、もし仮にそうであったとしても、「理論」が「現実的切迫性」に対して有効性をもち得ないなんてことはありえないし、第三に、そもそも「現実的切迫性」なんてものにいちいち煽られていたら支援の現場で実際に必要な冷静さに支障をきたしてしまうんではないかということ。一つずついこう。
えーと、まずは「あれこれと支援について語る」わたしの立ち位置を簡単にご説明しておくと、わたしは現在、「(不登校・ひきこもり等をも含む)若年のためのフリースペース」を山形市内にて開設・運営している。活動を始めて5年目になる。動機はいろいろだが、そのひとつは cafe_noir さんの言うような「現実的切迫性」に対する「現実的行動」を、自分たちにできる範囲でやっていこうというものである。何が言いたいのかというと、少なくともわたしはネット記事のコピペの類を基盤に何かを語っているわけではないよってこと。したがって、「理論上のオルタナティヴ」とか「「難問」を、出来ましたら…考えていただきたい」とか断言されると、いちおうささやかながら現場での実践を下敷きにした話題ですが何か(二神氏の『希望のニート』も現場からの実践報告である)とか言いたくなるわけである。
さて、その支援の現場というのは、「公益」や「善意」というタテマエのゆえに、支援する側は自らが及ぼし得る影響力や自らが行使する権力というものに無自覚になりがちで、とりわけそれは「地方」にあっては想像以上にひどい。「善意」ゆえの人権侵害がまかり通る世界である。そうした「二次被害」は、支援者の無知ゆえに生じる場合もあるのだが、ときには「善意」を利用して権力を獲得しようとするような連中も存在する。「人権侵害」をネタに構築された権力や暴力による、真性の人権侵害。そういうものが――少なくともわたしの関与する――支援の世界にはありふれている、というのが現場での実感なわけである。構築主義的アプローチの有効性は、少なくともそうした事情を見極めるに際しての視点を与えてくれる点にあると思うし、当然ながら自らがそうした場所に陥らないための点検装置にもなる。そういう意味で、「理論」や「対抗言説」は、支援現場において「現実的な」実効性をもち得る、というのがわたしの考えである。
言い換えよう。構築主義とは、既存の「実体」概念を相対化するというよりも、現在進行形の「構築」過程(自分の関与含む)をこそ暴露し、骨抜きにするものなのではないか。「構築」が一部の利害関係者(自分含む)の「利権」に陥らないよう、チェックするための道具なのではないのか。そういう点で、それなりに使い勝手のよい道具として、わたしは、構築主義を利用しているわけである。そういう前提からすれば、「理論/行動」なんていう二分法は(少なくともわたしのいる)現場では不要。むしろ有害だということだ。
最後になるが、「現実的切迫性」をあまりに強調しすぎる語り口は、一方で不安を煽りつつ、もう一方で不安慰撫商品の消費を促進する「恐怖の資本主義」あるいは「恐怖と消費の一大キャンペーン」を連想させて、わたしは正直いって忌避したいと考える。取り組むべき問題それ自体が、最近急に発生した問題なわけではない(そう感じるとすればそれ自体が「構築」の効果ではないのか。ちなみにメディアによる「構築」の一例に関しては、【ここ】を参照)。その背後に長期的に生成した発生条件があればこそ、それへの取り組みにも同種の長期的な視野と対応が必要になるのではないか。加えて、支援の世界では、支援のための資金も、資源も、人材も、圧倒的に不足しているというのが実情だ。
したがって、子どもたちを救いたいのであれば、子どもに直接アプローチする人材や資金が必要だし、そのためにはその人材や資金を集めるための人材や資金を集めることが必要。そのためにはその人材や資金を集めるための人材や資金を集めるための人材や資金を集めることが必要で、そのためには(以下略)。支援の現場に立つということは、そういう面倒くささを引き受けるということでもある。であればこそ、そういった迂遠さやそれに耐える冷静さがなければ、長期的に持続可能な「支援」など端的に不可能。長期的に持続不可能な「支援」などに意味はないわけで、だからこそ「長期持続が可能であること」を前提に支援というものを考え、組み立てていかなければならないと思うのである。

追記: 「現場」「現場」って、うぜーな。とは、書いた当人ですら感じるところですが、現場の人間の言葉とギャラリーの人間の言葉とでは、たとえそれが同じ「語彙」だったとしても、それが機能する文脈や効果はまるで違うわけで。その意味で、双方の「構築主義」観の「落差」をこそ明示したいと考え、やや「現場」を強調してみた次第。別に「事件は会議室でおきているんじゃない、現場でおきてるんだ(から発言/決定/解釈権を全て現場に委ねよ)」とか思っているわけじゃないです念のため。